東京
今週のお題「好きな街」
田舎者の自分にとっては、『東京』という響きは、何か別世界がそこには広がっていると言った感覚に近かった。
東京への憧れは中学校の時からどんどん大きくなっていった。
トウキョウはブラウン管の中で少年の頭の中で大きく膨れあがり、建ち並ぶビルや、夕焼けの中に流れる汚染された川の水、また線路を覆う落書きによって肌を隠した長い塀。
少年の心臓の裏側に沢山のネガを生成した。
東京という街はとてもドラマティックでもあり、近代的でもあり、無機質な印象があった。
初めて住み始めたのは中央線沿いにある国分寺。
今、都心で生活している私でも、当時は国分寺に降り立った時『都会だな』と感じた。
まるで、自分の人生が映画のワンシーンのように、陶酔に近い感覚を持ち合わせながら生活した。
これから始まるであろう成功までの道のりを楽しみながら、沢山の出会いやたくさんの学び、また寂しさまで手にしていたのが18才の少年。
2004年のその年は、日銀の金融政策によって『いざなぎ景気』と呼ばれる緩やかな回復期を迎える頃だった。
当時の自分のメンタルの影響もあったのかとも思うけど、どこか街には活気があり、未来の成功が少年の中で確信に変わっていた。
東京という街、そして何より東京といった言葉の響きには、今でも特別なものを感じる。
その後、渋谷区や世田谷区とすみかを移したが、今でも自分にとって東京にはある種の旅をしている感覚がつきまとっている。
街という物は生き物だと誰かが言った。
なるほど、街は一日一日姿を変え、近代的に変貌を遂げたり、また人に見放され荒廃する場所もある。
街は、人のこころそのものを映し出す鏡なのかもしれないと感じている。
その街に住み、その街の空気を作る、その人々の心そのもの。
東京がこれからも、ドラマティックであり、近代的であり、またノスタルジックでもあり、どこか無機的であることを望んでいる。
5年
3.11、多くの方々が亡くなられてから早5年が過ぎたのですね。
あの時、僕は東京の港区で仕事をしていましたが、まさかあれほどまで大きな災害だったとは思いもしませんでした。
この5年間、被災地の方々、とりわけ犠牲となられた方、ご遺族の方々にとっては大変な時間を過ごされた事でしょう。
こんな僕にも何か出来るかと考えた時もありました。
そして、時間が過ぎ行くにつれて『何もしない』という事も時には
大きな力になると言う事を学びました。
『何もしない』
これは何も困っている人を見かけても、何もしないで見捨てるといった事ではありません。
例えばネット上で出回った悪質なデマの数々、その情報を拡散してしまったが故に、それがまた事を重大化してしまった。
あるいは、これから起こるであろう未曾有の食料危機にそなえて、コンビニ、スーパーから食料品から生活必需品品までを我先にと買い漁る。
その結果がどうなったかは、ある程度時間が経ってからわかるものなのですよね。
ああ、もう5年も経つのですね。
原子力発電所の問題にしても、あれほどまで叫ばれた放射能汚染によって、この5年間が生み出したものは『奇形児』ではなく、被災地をさらに追い詰める『風評』だけでしたね。
確かに、人間にはブログのテーマでもある『未来を予想』し、悪い未来が予想される時は何か行動を起こしたくなります。
その未来の予想が悪ければ悪い程、極端な行動を起こしてしまうものなのですね。
その行動は、さらなる悪循環を生み出す事を学んだ5年間でした。
とてつもなく良い未来の予想は、現在の望ましい方向への行動へと掻き立てるものです。
でも、有事の際、特にあれほどまでの甚大な被害をもたらした災害の時にはそんな事思いもつきません。
一方で、未来に対して希望と絶望とが混在する時は、人は何もしない事が楽になり行動をしなくなります。
だから、あれだけの大災害で恐怖と不安が立ち込めた時だからこそ、『何もしない』ということがいかに大切で、いかに難しい事かと感じたのです。
そして、5年が経った今、恐怖や不安が少しづつ人々の心から消えて来た今、被災地の為に、ニッポンの為に出来る事も少しづつ増えてきたのです。
これから待っている未来を明るくし、被災地からニッポンを元気にする為にも、僕が出来る事は祈るだけです。
明るい未来を信じて、何もしない。
ただ、日々を自分の仕事を含めやるべきことに、粛々と取り組んで行きたいと思います。
戦争は起こるのか?
戦争が起こるかどうかを本日は考えてみたいと思います。
このブログは未来を予想するブログですので、はじめの記事で挙げたような『戦争の危機』がどの位リスクとして顕在化しているのかを考えてみます。
いわゆる安保法制の問題が最近メディアを賑わし、戦争や徴兵制を意識し始めた人も多いかと思います。
これもまた、メディアの印象論に惑わされないように、『戦争のリスクとは一体どのような時に高まるか』を考察する必要があります。
歴史を紐解いてみると、どのような国が他国による攻撃を受けているかを考えてみる事になります。
『弱い国』です。
欧米列挙はかつて、世界に数多くの植民地を作っていた事からもわかりますね。
僕は近年、一番戦争の危機が近づいたのは尖閣諸島の漁船衝突事件だったと思っています。
戦前の日中戦争も、日本軍と国民党軍のそんな小競り合いから始まったのです。
尖閣諸島の事件は、明らかにリーマンショック後の過度なデフレ不況で弱まった国力、また弱腰な政権の対応が招いた、『弱さによる危機』だったのです。
そう考えてみると、今は当時より戦争のリスクが高いのでしょうか?
安保法制によって徴兵制が実施されるなんて話もありましたが、あの法案のどこにそんな記述があるのでしょうか?
残念ながら現在の日本には、一国で自分の身を守れるほどの強さはありません。
そんな意味でもアメリカと組んでおくということは、戦前の失敗を繰り返さない為にやむ負えなかったのかなぁなんて筆者は理解しています。
どれだけ考えても、それでも今後戦争が起こるかどうかはわかりません。
ただ、メディアが煽るように危機的な状況が今ここにあるかと言われれば、疑問を抱かざるを得ません。
これで最近の悲観論を考察する記事を一旦終わります。
そして、これからはより良く未来に希望を持って生きられるようなテーマを幅広く紹介していきたいとおもいます。
国の借金 完結編
今回は国の借金についての完結編にしたいと思います。
極力、簡単に、シンプルに、わかりやすく締めくくります。
日本の1044兆円に上る債務の約9割は国民が間接的に日本政府に貸しているという事まで前回の記事に書きました。
では債権者である私たち国民の『資産』はいくらあるのでしょうか?
1683兆円の金融資産なのですね。(2015)
もちろんこの中には日本政府が発行している国債も入っています。
また日本の対外純資産は実は世界一なのです。(366兆円)
負債があれば資産もある。
まあ、これだけで『未来は安全』とは確かにいえません。
ですが、国の借金1044兆円だけを声高に叫ぶ悲観論に対しては、やや懐疑的になる必要もありそうです。
難しいことは極力さけたいのですが、ポイントだけ記します。
財政を健全化していくには経済成長が不可欠であり、政府が発行する国債の利息を名目GDP成長率が上回ればいいのです。
借金を0にする必要はそもそもないのです。
ここで、名目GDPを増やすためには前回のりんごを例えにとった話を活用し、国民が生産したものに対して日銀がお金を発行してマイルドなインフレにする必要があるのです。
あまり難しい話は今回はなしにしますが、もし日本が財政破綻(債務不履行)に陥る可能性が本当に高いのであれば日本国債の金利は今なぜこれだけ低金利なのかという疑問が残ります。
債務不履行の危険があれば日本の国債金利がもっと高くないと誰も買ってくれませんよね。
すくなくとも海外から、市場からは日本の国際は比較的安全だと見られているのです。
よって、過度に悲観する必要は、借金問題に関しても言えそうです。
国の借金 2 (お金とは何か)
前回の記事では、国の借金と国民の借金は=ではなく、むしろ債務者と債権者の関係であることを指摘しました。
さて、今回は前回記しました借金(日本政府が発行する国債)の中身を考えて見る前に、まず『お金』という概念について提示したほうが理解をしやすいと思いますので、経済の血液である『お金』について話したいと思います。
なぜ、私たちは福沢諭吉が描かれている紙をお店に持っていくと、自分が欲しいアイテムやサービスと交換してもらえるのでしょうか?
それは、その諭吉が描かれている紙に価値があると信じているからです。
言い換えると、その紙をどこのお店に持っていっても、それ相応のアイテムと交換できると信じているのです。
ここで疑問が浮かびます。
『それ相応の価値』とは一体どの位の価値なのでしょうか?
簡単に言うと、世の中で言われる価値とは『モノ(サービス)』と『お金』の量のバランスで成り立っています。
例えば世の中に1万円とりんごしかなかったとします。
ごの価値は1万円ということですね。
ところが、ある人がりんごを大量生産する技術を発明したとしてりんごを1万個作ることに成功したとします。
そうするとりんごの1個あたりの価値は1円に低下してしまいますよね
逆にりんごをだれかが食べてしまい、生産する前に世の中からりんごなくなったとしましょう。
そうするとこの1万円はただの紙切れになってしまいますね。
とても極端な例ですが、モノとお金の関係とはこのような構図になっています。
そして、前者であるモノの価値が低下することを『デフレーション』
後者を『インフレーション』(お金の価値が低くなる)
と現代では呼んでいるのです。
さて、ここでモノとお金の調整を行う人が必要になりますね。
現代ではその調整の役割を『日本銀行』いわゆる中央銀行がになっています。
とてもざっくりお話しましたが、ここで国の借金問題に戻ります。
前回の記事で、国民が政府にお金を貸していると言いました。
ここで重要なのは、国民がドルで貸しているはずもなく『円』で貸しているのです。
形としては『日本国債』を日本政府が発行して、その国債を金融機関が買い取っていますが、その中身は国民の貯金や年金、投資といった内容で実質は日本国民が国債を通して政府に貸しているのです。
これは悲観すべきことか、あるいは少々楽観視るいいのか?
次回はそこを考えてみたいと思います。
国の借金について 1
さて、今回の記事では、近年ずっと話題になっているいわゆる『国の借金問題』
について書いてみようと思います。
先日のニュースにて、我がニッポンには1044兆円の借金があると報道されていました。
これを国民の人口で割った一人当たりの金額にすると
国民一人当たり、実に『824万円』の借金があるそうです・・・
824万円!!!?
びっくりですよね。
『そんなに借金した覚えはないよ』
といった悲痛な声が聞こえてきそうなニュースですな。
ここで悲観して思考停止になる前に一度考えてみたいのです。
こんなに、借金した覚えはない。
その感想、ごもっともなんです。
借金といっても、国(日本政府)が借りているなら一体誰からこの巨額なお金をどうやって借りているのでしょうか?
借りている人がいるのなら、貸している人もまたいるはずです。
当たり前ですのね。
これ実は、貸しているのは私たち『ニッポン国民』なのです。
あれ?
ニュースでは国民一人当たり824万円の借金があるといっていましたね。。。
違います。
国民一人当たり824万円、国(日本政府)に貸しているんです。
オギャーと生まれた赤ちゃんも、生まれながらに824万円、貸している計です。
資産家の赤ちゃんですね。
これはどういう事か。
これは、この莫大な借金の9割を占めるいわゆる『日本国債』と日本の持つ金融資産、また『お金』という概念を見つめることによってクリアになってきます。
印象論に惑わされないように、次の記事ではさらに掘り下げて書いてみたいと思います。
日本の犯罪は増えているか?
前回の記事で書きました『本当にメディアが言うほどに日本の未来は暗いのか?』
前回、例にあげた中でまず、簡単に現状と未来予測を確認出来る項目として、『治安と犯罪の現状』について見てみましょう。
「最近の若者はすぐにキレる、若者の凶悪犯罪が増えた。」
または、昔の日本は『水と安全はタダ』と言われていたけれども、最近は物騒な世の中になってきたわね。
なんて事を耳にした方も多いと思います。
『ほんとうにそうなのか?』
まず、これはメディアで叫ばれる印象論ではなく、データである程度正確な現状を確認してみる必要があります。
犯罪率、また犯罪認知件数は戦後(昭和20年~)に大きく増加し(認知件数160万件)、昭和48年で底を打つ形(130万件)、平成14年の285万件をピークに昨年平成27年は昭和48年を下回って109万件となっている。。。
ん?
昨年、戦後最少で推移もかなりランダムですね。
今度は凶悪犯認知数。
戦後の昭和25年、16225件を記録し30年代前半まで13000件近辺で推移。
昭和48年には1万件を割り、平成元年には5899件になる。
年平成27年には5618件を記録。
平成27年にはなんと、60件まで 減少しています。。
いやいや、でも少年犯罪は凶悪になっているはず!
あれ?
少年の刑法犯罪は11年連続で減少(2014年時点)
10年前は1400人を超えた未成年凶悪事件の検挙人数は2014年に700人に減少・・・
さて、最近の日本は本当に物騒なのですかね?
古き良き日本というのは、そんなに安全で素敵な国だったのでしょうか?
どうやら、メディアや世の中が思っているほど、日本が物騒になって来ていると思うのは一度疑ってみた方が良さそうです。
そして、これからのニッポンの治安も、そこまで悲観することもなさそうですね。
次の記事では国の借金について書いてみます。